香川県沿岸部のおおよそ中央に位置する「宇多津(うたづ)町」。
商業施設やアミューズメント施設が集まる沿岸部の「新都市」と、
昔ながらの街並みを残す「古街(こまち)」が対照的な
中讃地域の中核都市のひとつです。

引用元:Google社「Google マップ」
キーワードは「海岸線」と「産業」
宇多津は古代より港町として栄え、さまざまな変遷をたどってきました。
歴史を経るごとに海岸線は北進し、街はその都度変容してきました。
また、都への発船の拠点から、船の中継地として、
そして塩の街へと産業も大きく移り変わってきたのです。
このコラムでは、そんな宇多津の街のストーリーを時代ごとに振り返っていきます。
話してくれたのは宇多津町文化財保護協会の畑元(はたはじめ)さん。
古街エリアに暮らし、地元の歴史を学んできた畑さんのもとに、
宇多津古街ガイド、ウォーキング・歴史好きな面々が集いました。
大岩本 洋子 うたづの町家とおひなさん会長、宇多津古街ガイド
玉井 幸絵 (株)ちいおりアライアンス、宇多津古街ガイド
西本 祐子 うたづの町家とおひなさん副会長、宇多津古街ガイド
井村 義幸 ウォーキング企画を担当
石川 朋子 (株)ちいおりアライアンス
横田 惠子 宇多津古街ガイド
今の宇多津は海の下だった!?
畑さん
宇多津が初めて文献に登場するのは平安時代のこと。
当時の表記は「鵜足津」でした。
これは鵜足(うたり)郡の津(つ:港のこと)であったことを意味します。
このときの海岸線は今より4kmほど南にあったと推定されています。
つまり、今私たちが目にしている宇多津の街は、
まだ海の下に眠っていたということ。
そして青の山付近までは遠浅の海が続いていたようです。
井村さん
青の山は、当時はどんな形だったんでしょうか?今と同じ?
畑さん
青の山は当時は半島のようになっていたと考えられています。
遠くの海からでも見える目印として、昔から船乗りたちに重宝されていました。

引用元:Google社「Google マップ」を基に作成。赤線が古代の海岸線(推定)
さらに半島の手前には穏やかな海が広がっていたため、
自然を活かした良港として機能していました。
都と讃岐をつなげる拠点
畑さん
鵜足津からは塩や米、絁(あしぎぬ:絹織物)などが
都へと運ばれていたことが記録されています。
鵜足津周辺には法隆寺の寺領があり、
そこから税としてさまざまな品物が都へと収められていたのです。
玉井さん
鵜足津は古代から、瀬戸内海を通じて日本の中心と密接につながっていたんですね。
横田さん
万葉集にうたわれた「網の浦※」は宇多津なんじゃないか、という説もありますよね。
そのぐらい昔から、宇多津は良いところだと都の人も認識していた、ということかもしれませんね。
※万葉集 第一巻 五番より
「(前略)~網の浦の 海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心~(以下略)」
「(意訳)網の浦の海人娘子(あまおとめ)たちが焼く塩のように、故郷への思いにただ焼け焦がれている。ああ、切ないこの我が胸のうちよ」
港の歴史② につづく