前回の港の歴史①では、
今よりずっと海岸線が南にあった、
古代「鵜足津(うたづ)」の姿を思い描いてみました。
続いては、宇多津が最も輝いていた(!?)中世の歴史を振り返っていきます。
海岸線が北上し陸地が出現!
畑さん
古代より都と讃岐をむすぶ海運の重要な拠点として栄えた宇多津。
中世に入ると海岸線が北上し、
現在の宇多津古街とほぼ同じ範囲が陸地として出現しました。
古代には青の山の南側にあった港も、
海岸線の変化とともにやや北上。
聖通寺(しょうつうじ)山と青の山に挟まれた湾のような部分と、
海岸沿いの2ヶ所にあったと考えられています。
西本さん
2つの山に囲まれていて船を着けやすかったんですかね。
畑さん
浅い入り江がラグーンのようになって重宝したようですね。
中世、宇多津はもっとも輝いていた…!?
井村さん
この頃になると、瀬戸内海の海運はより活発になるんじゃないでしょうか?
畑さん
そうですね。瀬戸内海は今でいうところの「高速道路」でした。
下関を抜け、愛媛県沖の伊予灘(いよなだ)から都に向かう船は、
瀬戸(せと:島が多く流れの速い入り組んだ海域)と
灘(なだ:島が少なく流れの穏やかな広い海域)とを
交互に経ながら進んでいきます。
急流の備讃瀬戸(びさんせと:岡山県と香川県の間の瀬戸)を越える前に、
多くの船が宇多津で一休みしていたのかもしれませんね。
1445年の兵庫北関(きたのせき)入船納帳によれば、
宇多津を発した多くの船が北関まで入船していたとの記録が残っています。
宇多津は大きく繁栄し、
寺社なども多数立ち並ぶ力のある街になっていきました。
大岩本さん
当時、宇多津にはお寺が…確か最大30カ寺でしたか?
畑さん
はい。
小さな街ながら驚くほどたくさんの勢力が集まっていたんですね。
天下統一、しかし宇多津は…
畑さん
その後、豊臣秀吉による四国平定後の1587年、
生駒親正(いこまちかまさ)公が讃岐国を与えられます。
親正公がまず考えたのは、本城をどこに置くかということでした。
宇多津にはすでに聖通寺城がありましたが、
本城としては手狭だったこと、
また直近で2度城主が改易(かいえき)※となっていたので、
親正公としてはその城をそのまま使うのは心象があまり良くなかったんではないでしょうか。
※城主の所領を罰として没収、減封、転封すること
玉井さん
かといって、新たに城をつくって城下町を置いて…というには、
やっぱり宇多津の街は少し狭いですよね。
加えて、繁栄していたが故に旧来からの寺社勢力も多いですから、
新しく来た親正公にとってはいわば脅威とも言えますよね。
畑さん
そうですね。
旧勢力の力を弱めることは親正公にとっても大きな関心事でした。
結局、本城は高松市に(=高松城)、
支城は丸亀市に(=丸亀城)置かれることになり、
宇多津は政治の中心からは外れてしまいました。
しかも築城の際に宇多津にあったいくつもの寺社が、
檀家ごと高松や丸亀に移動させられてしまったんです。
横田さん
この頃から宇多津の繁栄に少し陰りが見えてきた…という感じでしょうか。
畑さん
そうかもしれませんね。
一方で、その名は世界にも知られていた可能性もあるんですよ。
宇多津は世界デビューしていた…かもしれない
畑さん
キリスト教の宣教師と共に船で日本を巡っていたMoreira(モレイラ)という人物が、
1617年に記したとされる日本地図に宇多津の名が出てきます。
そこで宇多津は、「Sanuqui(サヌキ)」の港として
唯一「Vtangra(ウタングラ)」と記載されています。
「-angra(アングラ)」はスペイン語で「入り江」の意味。
「Vta(ウタ)」+「angra(アングラ)」、
つまり「鵜足(うた)」+「津(つ)」という地図を
世界の人も見ていたのかもしれません。
石川さん
驚きました。
やはり昔から、宇多津はそのぐらい開けた、栄えた街だったんですね。
港の歴史③ につづく